当社社長が、もともとランボルギーニの、日本総代理店だった、
   シーサイドモーター出身のため、このメーカーには縁が深い。
   鞍が入社したのは、1974年の4月だが、そのころは、ランボルも、もちろんそうだが、フェラーリも含めて、
   いわゆるスーパースポーツカーというものは、日本には、非常に数すくなかった。おそらく、数えても20か
   30台ていどのもんだったろう。

   私が始めて見た、ランボルは、なぜかJARAMA (ヤラマ)だった、とにかくそのスタイルも衝撃的だったが、
   12気筒にツインチョークキャブが、6個も付いているのにはびっくりしたもんだ。日本にもこんなスゲー車が
   あるんだ。というのが正直な感想。もちろん、新米の私にのせてくれるはずもなく、運転したらどんな風なの
   か、と皆さんが思うように、当時私もおなじように、考えていた。

   
そうこうしている内、店にはミウラも、エスパーダもやってきた。もちろんほんの数台だけだ。
   350,400GTは、こなかった。
   75年になると、ようやく私も、念願の営業のアシスタントをさせてもらえるようになり、ぽつぽつと、乗ることを
   許されるようになってきた。

   私が、始めて乗ったランボルは、当時新車で入ってきた、P250ウラッコだ。
   たまたまショールームに、飛び込みではいってきた、北里大学のインターンだったお客に、この車を買って
   いただいた。
   新車で当時でたしか、800万はしたと思う。私の給料が、大体10万くらいだったから、今で云えば2000万
   くらいのもんだ。
   と同時に、この車が、初めて私が売った記念すべき、イタ車、1台目となったのだ。

   
それからは、怒涛のごとく、イタ車を、売りまくっていいった訳だが、当時はちょうど、各メーカーも(フェラーリ、
   ランボル、マセラーテイ、デトマソなど)売れる車を、真剣に出し始めたころだったので、(1974年ごろから
   1980年にかけて)私は本当に、良い時期に、この会社にいたと言える。

   
それぞれの、諸元等は、雑誌で見てもらうとして、ここでは実際の姿を説明しよう。


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