〜 シーサイド物語 〜

■ エピローグ。車屋の原点、商売の始まり。

これを読むとき、知っている人は、石原裕次郎の横浜物語を、口ずさんでくれ。

      
   
    1975年ごろの名刺だ。 
    SSSAとは、Sea Side Sports Association の略だ。
    このロゴマークは、東京オリンピックのポスターをデザインした、有名なデザイナーがワイン1本で作ってくれたもの。 
    勿論、シーサイドの客だったから。
   

見よ、このダンディーな姿を。
昭和30年代、横浜本牧のあたりだ。
まだ市電が走っていた。


皆さんご存知 ?のシーサイドモータースは、当社社長 鞍にとって、今の商売の文字どうり原点を、築いてくれた存在だった。
鞍が、入社したのは昭和49年、1974年の4月だったが、勿論この会社の歴史は、ずっと遡る。

この会社の創設者、松沢己晴(みはる)、昭和10年生まれだから、生きていれば今年、67歳だ。
彼が、商売をはじめたのは、神奈川の相模原だった。
東京の目黒生まれの彼が、戦争の疎開先として移って育ったのが、相模原だったというわけだ。

今でこそ、ニュータウンとして、人口が飛躍的にのびているが、当時は相模の原っぱ。
本当に、畑と原っぱばかりで、なにも無かったという。
ところが、戦争が終わり、米軍が進駐してくると、この広大な原っぱは、基地にもってこいの場所に変わったのだ。

現在も残る、横田基地、座間キヤンプなどは、そのころに作られたわけだ。
そして、その環境が、松沢己晴の運命を決めていくことになる。
当時、高校を出た20歳の己晴は、特に定職につかず、ぶらぶらしていたが、ある日、おじさんの紹介で、東京麻布の車屋から、
アルバイトを頼まれる。

その仕事とは、アメ車のビュイックを、大阪まで運んで、集金してくるというものだった。
当時、昭和30年、1955年といえば、まだまだ国産車だって、数少ない時代で、ましてや、外国産の輸入自動車といえば、
特権階級の人のみが、持てる、そんな時代だった。

今の、ヤナセの前身、ウエスタン自動車が細々とベンツを入れ始めていたが、輸入に関わる税金も今よりもはるかに高かった。
勿論、並行輸入は全面禁止で、政府から許可をもらった、正規代理店のみが輸入を許可されていたのだ。
このころは、国産車のレベルは輸出して売れるようなものではなく、(今では考えられないことだが)
そんな国産車を、保護するという政府の貿易対策だったのだ。

勿論、当時東名や名神高速などあるはずもなく、箱根の山越えが最初の難関という時代だ。
そんなのんびりした時代を、己晴さんはビュイックに乗って、東海道を走っていったわけだ。
無事に大阪に到着し、車を渡して受け取ったお金を見て、彼は驚いたという。
それは、東京で聞いていた、その車の仕入れ値の2倍だったのだ。
すなわち、300万で仕入れたものを、600万で売ったわけだ。

その驚きと、感動?が若い己晴さんの、商売心に火をつけた。
こりゃ儲かる。しかも時代の先端を行く、外車の商売だ。
という訳で、真似しようと思ったが、世の中甘くは無い。
そのころ、アメ車は特に人気があったらしい。
それは、アメリカ軍の将校などが、でかいアメ車を乗り回していれば、一部の金を儲けた日本人だって、俺も乗ってみたいと
思うはずだ。 ところが、輸入規制で、入ってくる車は少なく、しかも高い。 
おそらくデーラーがかなりのマージンを乗っけていたのだろう。

では、どうすれば車を仕入れられるのか?
ヒントは地元の相模原にあった。
そう、座間や厚木のキヤンプから、出てくる米兵の乗ったアメ車をバイクで追いかけ、店などで止まったところで声をかけるのだ。

I like to buy your car,
If you OK.

と、拙い英語で話し掛けると、大概は、NO と言われるのだが10人に一人は、まもなくアメリカ本国に帰るので、良い値段が
つくならお前に売ってやろう、と言われたそうだ。

そこで、うまく商談が成立すると、親戚中から金を借りまくってシボレーやら、ビュイック、フオードなどを買いまくり、麻布の車屋
に持って行って、換金するという商売だった。 いわゆる、ブローカーの原点というわけだ。

そいうわけで、1960年ごろ25歳の巳晴さんは、ついに自分のショップを持つことになる。
場所は横浜、元町の入り口から本牧へ抜けるトンネルの手前。
4〜5台ぐらいしか置けないような、小さな店だったが、得意の米軍属から仕入れたMGやトライアンフ、ジャガーなどを、並べた
ものだから、噂を聞きつけ東京からも、続々と客が来たという。
なにしろどこにも、このての店は無かったのだ。

そんな、スポーツカーのリヤーデッキに、誇らしげに SSSA のマークがついていたのだった。

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