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               ■ 第一話 妻 涼子とディノ 
                 
                  
                俺はいつもディノを動かす前にボディを綺麗に拭いてやる。 
                使うのはグラスターだ。 
                カーショップで600円で売っているこいつは、ボディの簡単な掃除と艶出しにはもってこいだ。 
                少し濡らした大き目のタオルに、頭のノブを押して白い泡を吹きつけ、それでボディを軽くなでてやる。 
                まるでギリシャ彫刻のビーナスのような前後フェンダーのふくらみ、これをなでているだけで、俺は優しい気持ちになれる。 
                そう、涼子と過ごした時間のように。 
              目の前にあるディノは少しクラッシックなイエローだ。 
                この車をレストアしてくれたキャステルの鞍さんが、モダーンなその代わり主張の強い黄色ともう一つはクラッシックな 
                少しおとなしめの黄色と、どちらが良いですかと聞いた時、同席した涼子がサンプルの車を見ながら、 
                クラッシックな方が眼に優しいと言ったのだ。 
              その目に優しいと言った言葉が今も頭にこびりつくように離れない。 
              ディノを始めて涼子に見せたのは、結婚5周年を記念して訪れたアメリカ旅行でだった。 
                久しぶりだからという彼女の提案で、行き先はロサンゼルス、ホテルはビバリーウィルシャー。 
                そう、映画のプリティウーマンに出てくるLA屈指の名門ホテルだ。 
                 
                   
                 
                エントラントから入っていくと 
                j重厚なロビーに人は少なく 
                いやでも3人もいるフロントマンの目に留まる。 
                どぎまぎする俺に対し、涼子は全く臆する事なく流暢な英語でチェックインを済ませていく。 
                彼女は東京女子大の英文科を出ているのだ。 
              部屋に案内されると、ゆったりとして落ち着いた部屋にウエルカムと書かれたマネージャーのサインと共に 
                フルーツの盛り合わせがサイドテーブルに乗っている。 
                ストロベリー(特大サイズの) アップル、オレンジ、パパイヤなど。 
                 
                するとボーイと共にメイドが入ってきて、食べやすいようにアップル、オレンジなどを綺麗にカットしてくれるのだ。 
                勿論客の目の前でひざまずいて、俺たちはでかいソファーにふんぞり返りまるで王侯貴族のような気分を味あわせてくれる。 
                憎い演出だ。 
                ハワイのオアフ島ナンバーワンと言われる、ハレクラニもフルーツやチョコレートのサービスはあるがここまでは無い。 
                 
                行った時が6月で、丁度目の前のロデオドライブでFCA(フェラーリクラブオブアメリカ)のイベントが催されていた。 
                というか、あらかじめそのイベントがある日を涼子に内緒で選んでおいたのだ。 
                シャネルやブルガリ等、ブランド店がずらりと並ぶLA屈指のストリートに、道を封鎖してフェラーリを扇方に並べている。 
                ざっとその数50台。 
                 
                   
                 
                (夜のロデオドライブ) 
              涼子というとさすがに金持ちの一人娘だけあって、ブランド物には目が無い。 
                フルーツを食べ終え、外に出ると早速シャネルの店に入り店員に時計を出させている。 
                彼女が選んだのは皮ベルトで時計本体がゴールド、その枠にダイヤをちりばめたその店で一番高いものだった。 
                箱なんか要らないわ、と無造作に腕にはめると次はブルガリの店だった。 
                 
                この店は入り口に屈強なガードマンがいるのは勿論だが、店の中に入ってもいわゆるショーケースは無い。 
                小奇麗なテーブルに客は通され、まずイングリッシュティーが出てくる。 
                次に客の風貌に応じて、セールス、マネージャー、店長と対応が変わるわけだ。 
                その時はマネージャーとおぼしき貫禄のある女性が出てきた。 
                 
                ようこそ今日は何をお見せしましょうか? 
                満面に笑みを浮かべながら、涼子のシャネルの腕時計をちらちら見ながら言う。 
                すると彼女はネックレスの大きいのを見せて欲しいといった。 
                後ろに控えるイタリヤの伊達男みたいなアシスタントに、マネージャーは小声で指示するとうやうやしく御節の箱みたいな 
                5段になったケースがテーブルに置かれた。 
                 
                マネージャーが一つ一つの引き出しを取り出してテーブルに並べる。 
                宝石には疎い俺だが、間違いなく数百万はするだろう物ばかりだ。 
                涼子はしばらく眺めていたが、これを着けてみたいと ルビーのでかいハート型にシェイプしたネックレスを指した。 
                アシスタントに着けてもらい鏡で確認すると、俺にどう?と聞いてくる。 
                うなずくしかない俺をしりめに彼女は値段も聞かず、これ頂くわ。 
                と言ってダイナースカードを取り出した。 
                600万だった。 
                 
                時計と宝石を手に入れた彼女は、気に入った買い物が出来たと上機嫌だった。 
                すると、貴方本当はこれが目当てだったんでしょ?と並んでいるフェラーリを指差す。 
                高級ブテックが並ぶLAで一番の名所にフェラーリを並べる。 
                誰が考えたのか、確かにこれ以上の組み合わせは無かった。 
                おまけに天気はカリフォルニア特有の快晴だ。 
                降り注ぐ紫外線がイタリアンレッドを纏ったフェラーリのボディをいっそう輝かせている。 
                 
                涼子がふと立ち止まった。黄色のディノの前だ。 
                これ何ていうの?何故フェラーリのエンブレムじゃないの? 
                俺は、まってましたと説明を始めた。 
                名前の由来、デザイナーの名前、生まれた年。 
                この中で彼女は特にデザインと作られた年、1970年に興味を持ったようだ。 
                勿論自分の生まれた年と同じだったから。 
                 
                へえ、27年も経つのに生まれたての新車みたいなのね。 
                この言葉も後々俺にとって忘れられない言葉、キーワードとなった。 
                   
                
                 
                 
                そう、俺も子供の頃から(例のスーパーカーブーム)フェラーリにあこがれ、特にディノが大好きだった。 
                あのこじんまりとした、しかし抑揚の有るボディ、簡素なコクピット、どんな走りをするのかは想像すらできなかったが 
                きっと、きびきびした動き方をするのだろうと、思ってた。 
                 
                他の車には目もくれず、ディノをためつすがめつ眺めている俺を見て涼子は気ずいたのか、貴方この車ほしいんでしょ? 
                と人なつこい笑顔で問いかけた。 
                俺は1にも2にも笑顔の優しい女性が好きだ。その人の笑顔にはその人の全人格が出ると思っている。 
                笑うとみんなを幸せにする、そんな涼子だった。 
                 
                うなずく俺を見て、でもこんな車日本で見たこと無いわよ、日本で買えるの?と聞いてきた。 
                そこで俺は横浜にキャステルオートと言うところがあること、電話では何回かそこの社長鞍さんと話したこと鞍さんところの 
                ディノの評判などを話した。 
                すると彼女は、面白そうね、家からも近いし(そのころ東京の世田谷区等々力(とどろき)と言うところに住んでいた。)行っても 
                良いよと言ってくれたのだ。 
                 
                今は鞍さんは情報満載のホームページで顔写真も時々出しているからある程度イメージはつかめるがその頃はまだ車雑誌 
                の広告のみだったから、会うまでどんな人か想像つかなった。 
                おまけにその広告文が結構過激だったりするので、始めて会うときは少し緊張した。 
                 
                何しろ相手は伝説のシーサイドモーターの最後の営業部長で、イタリヤ車に関しては絶対の自信があるというでも涼子と一緒 
                に小さな喫茶店で会った鞍さんは、きさくな優しい感じの人だった。 
                 
                ちょうどタイミングよくレストアに良いベースの車があるという。 
                年式も1970年、ヨーロッパ仕様のクーペだ。 
                エンジンをかけてもらうと、なめらかな良い音をしている。 
                ちょっと試乗とかいって、鞍さんの運転で首都高を走ったが、7000回転までフルに回して走る鞍さんのドライビングにも感心 
                したがそのディノのコーナリングのしなやかさ、エンジンの意外なトルク感にも驚いた。 
                更にこのエンジンを塗装の時に降ろしてオーバーホールするという。 
                塗装は東京の麻布に有る老舗の工場。内装は頑固だが名人と言われる高井戸のKさんがやってくれるという。 
                 
                あとは涼子の決断だけだった。 
                彼女はこの間のロデオドライブの時と同じ、即決だった。 
                いいわよ、お願いしちゃいなさいな。 
                生まれた年も私と一緒だし、両方可愛がってね! 
                といってエルメスのバッグから100万の札束を取り出すと、ぽんとテーブルの上に置いた。 
                 
                この"両方”の意味がしばらくのち、叶えられなくなるとは俺はその時夢にも思っていなかった。 
              そのころ俺は、まだ証券会社に勤める普通のサラリーマンだった。 
                その日他社の役員の接待で遅くなり、俺は渋谷から電話を入れた。 
                この日は夕方から雨が本降りになったのだ。 
                いつものコースだと東横線で自由が丘まで行き、そこで大井町線に乗り換える。 
                すると涼子は自由が丘まで迎えに来ると言ったのだ。 
                 
                彼女は自由が丘がお気に入りで、毎日の買い物はピーコックストアーかシェルガーデン。 
                気に入ったブティックやヘアーサロンも全て其処にあった。 
                でもここは元々は駅を中心にした住宅街だったので、小道がとても多い。 
                涼子は車には余り興味がなかったが、小さくて可愛いからと 
                ミニのメイフェアー オートマチックを選んだのだ。 
                 
                俺は今でも自責の念にとらわれる。 
                あの大雨の日、優しく迎えに来てくれるという涼子を、なぜタクシーで帰るからと遮らなかったのか。 
                せめてベンツのEクラスに乗せていれば、命を落とすことはなかったのではないか。 
                 
                その日いつまでたっても現れない涼子に不安がつのり、駅前の交番でこの近辺で事故は無かったですかと聞いたら、 
                悪い予感が現実だった。 
                目黒通りを渡る際に、涼子は信号無視をしてきたトラックにまともに横から突っ込まれたのだ。 
                相手は酒酔いだった。 
                病院に担ぎ込まれた時はもはや心停止の状態だった。 
                 
                葬儀は築地の本願寺で行われ、盛大なものだった。 
                ただ俺にはまるで映画のワンシーンを見ているようで、坊さんの念仏を唱える声も焼香者の弔いの声もまるで耳には入ら 
                なかった。 
                ひとつだけ現実を感じさせるのは、マンションのドアーを開け、ただいまと言っても、だれも返事が無いことだった。 
                その後一人娘だった涼子の後を追うように、両親も次々と亡くなり遺言で全ての財産が俺に来た。莫大な金額、不動産だった。 
                 
                早い物で今年で涼子の7回忌だ。 
                俺の始めてのビンテージスポーツカー ディノも俺の元に来て7年になる。 
                当時まだ店も持たないやりかただった、鞍さんだが俺は信頼して全てのレストアをしてもらった。 
                今は亡き永井さんと言う名メカニックもいた。 
                彼の組んだエンジンは今も絶好調だ。 
                涼子が亡くなった2ヶ月あとにディノはレストアがあがり納車されてきたのだ。 
                まるで新車のようだった。それは頼んでから1年後だった。 
                 
                当時俺は両親に申し訳なく思い、出来上がったディノを見せて売る考えを話した。 
                何故なら、1000万以上かかったこの車を買うための金は全て涼子からで、ペーペーの俺にはボーナスを差し出すことぐらいしか 
                出来なかったからだ。 
                 
                すると両親は、涼子の目に優しいと褒めた黄色のボディを見ながらこの車は涼子の生まれ変わりのような気がする。 
                あの子が生まれたのがこの車と同じ1970年。 
                涼子は27歳で亡くなったけれど、この車はもう一度新しく生まれ変わった。 
                涼子が生きていたらと同じように、50歳になっても70になっても 
                可愛がってやって欲しいと。 
                 
                俺はその言葉を聴いて、今までこらえてきたものが堰を切るように両親とディノの前で号泣した。 
                 
                エンツオの亡き愛息、ディノにちなんで名前を与えられたこの車。 
                でも俺はディノとではなく、涼子と呼ぶ。 
                ナンバーの1970は勿論涼子の誕生年だ。 
                 
                納車されて以来この車には男も、勿論女も誰一人乗せたことは無い。 
                それは涼子に対する当然の礼儀だ。 
                それと共に彼女をいつまでも綺麗に輝かせてあげること それが俺に課せられた義務だ。 
                 
                幸いこの7年間、鞍さんにお願いし細かなところも常に気を配り、メンテナンスをしてきた。 
                おかげで車は新車のようにいつもピカピカだ。 
                金はいくらかかっても良いと鞍さんに伝えてある。 
                 
                自分の女房の化粧に金をケチる奴がいるのか? 
                もしいたらそいつは最低だ。 
                 
                俺の涼子は今日も機嫌よく、眠りから目覚めてくれた。 
              涼子、今日は何処に行きたい? 
                横浜にでも行って潮風に触れてみようか? 
                 
                第一話 終わり 
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