■ マセラティ社が輝いていた頃の各車とは‥
この会社は、フェラーリと同等くらいの歴史と伝統のある、会社だったが、経営の失敗につぐ、失敗で、
今はフェラーリの子会社になっている。
ここでは、マセラティがまだ高級スポーツカーメーカーとしての、スタイルをまだ、保っていた、1960年
後半から1970年代までを振り返ってみたい。
実は、マセラティを解説することは、前から考えていたのだが、長い間ためらっていた。
理由は、ほとんどがけなすことばかりで、ほめることが少ないからだ。
しかも、私は当時シーサイドモーターという、マセラティの日本総代理店にいて、営業の立場から、この
マセラティ社が作る車を、バンバン売っていたのだ。
てことは、お前はろくでもない車を、客に売っていたのかということになる。事実はそのとうり。
ただ、当時は他の車と、比較すると言う考えが、ほとんどだれも無かったのだ。
それはそうだろう、イタリヤのランボルギーニとか、マセラティといえば、超がつく高級車メーカーだ。
そこで作っている車が、ろくでもねえなんて、誰もいえなかったし、(メカニック以外は) 私もこんなもんか
と思っていた。
ここでさらっと、この名門マセラティ社を振り返っておこう。
フェラーリもそうだが、マセラティも人の名前、いわゆるファミリィーネームだ。
1880年生まれ(生きてれば122歳! エンツオフェラーリより先輩なのがわかるよね)の長男、カルロを筆
頭に、ビンド、アルフェ―リ、マリオ、エット―レ、エルネストの6人兄弟だった。
1914年、ボローニャに小さな工場を作ったときは、長男カルロは病気で亡くなっていて、マリオを除く4人
の兄弟で旗揚げしたのだ。
始めは自動車部品(スパークプラグ)やレースカー製作の下請けなどを行っていたが、次第に自分たちの
名前を冠した、レーサーを作りたいという事になる。
そこでようやく、1926年に自分たちの名前を始めて表した、マセラティ ティーポ26を作り上げたのだ。
フロントに付くエンブレムは、現在も使われている トライデント(槍が3本おったってるやつだ)このギリシャ
神話の海神ネプチューンから取ったマークも、彼らの工場があったボローニャ市のマークからだ。
これからみても、イタリヤ人は自分たちの国や、歴史を大事にしているのが解るよね。
フェラーリのプランシングホースは、第一次大戦のイタリヤ空軍の名パイロットのトレードマークから来てるし。
それに比べて、ホンダとかトヨタのマークは何なの?
話は戻って、1930年ごろには彼らの作り出すレーシングカーは、素晴らしい成績を挙げ、1933年までの3
シーズンで100回の優勝をしたのだった。フェラーリ社が創設されたのが、1945年ころだから、マセラティは、
レースの世界では大先輩というわけだ。
ところが、1947年になって、彼ら兄弟は、自分たちの名を冠した、マセラティ社を手放してしまう。
理由は10年前に企業買収されたスポンサーのオルシ家との折り合いが悪くなってしまったからだ。
彼らはモデナに大きな工場を残したまま、故郷ボローニャに戻り、一から出直しと、OSCA社を立ち上げる。
だから、これ以降はオルシ家経営のマセラティ社となるわけだ。
それ以降、マセラティはレースカー製作よりも、豪華なグランツーリスモの製作にシフトしていき、1950年
後半からは、3500GTなどの、名作を作り出していく。
これがざっと今に繋がる、マセラティの歴史だ。
ここでは、60年代後半のミストラル、インディー、ギブリなどから70年初頭のボーラ、メラック、カムシンなど、
私が思う一番マセラティ社が輝いていた頃の各車を取り上げてみたいと思う。
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